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「生は不確実、死は確実」 これは仏教の有名な言葉です。死は、すべての生命にやってくる自然の現象です。私たちはこのことをよく理解して、死を恐れるべきではありません。しかし、どんな人も死を恐れています。なぜなら「死は避けられない」ということを知らないからです。そして自分の命や体にしがみつき、非常に多くの欲望や執着を抱えているのです。 赤ん坊が誕生したとき、家族や親類縁者は歓喜して幸せを感じます。激しい陣痛に耐えた母親も、喜びに満ちたまなざしで生まれたばかりの赤ん坊を見つめ、出産のときに味わった苦痛や困難は無駄ではなかったと感じるのです。しかし赤ん坊のほうは泣きながら生まれてきます。それを見ると、この世界に誕生するとき、苦しんでいるということがわかります。赤ん坊は、それから善い行為と悪い行為をやりながら思春期を経て大人になり、やがて老人になります。そして最後には親類縁者を残したまま、この世に別れを告げるのです。これが人間の本質です。誰も死から逃れることはできません。死が近づいてくると、私たちは財産や愛する子供のことを心配して悩み苦しみます。そして何よりも自分の体のことを心配します。誕生以来ずっと大事に守り続け、念入りに面倒をみてきたにもかかわらず、いまやその体はやつれ、衰え、消耗し切っています。体と別れることは、あまりにも悲惨で耐えがたいことです。しかしそれを避けることはできません。このようにして、多くの人は呻き声や嘆き声をあげながら、この世を去って行くのです。死を恐れるのは、私たちが無明で覆われているからなのです。 死の恐怖 私たちが不安になるのは外部のせいではなく、将来について考える自分の妄想のせいなのです。たとえば死、それ自体は恐ろしいものではありません。恐ろしいというのは自分の妄想なのです。私たちは「自分が死ぬ」という現実に直面できるほど、勇気がありません。ですから死という真理を突きつけられるのは、恐ろしく、受け入れがたいことでしょう。でも、死に向き合うことによって確実に恐怖は減少し、取り除かれてゆくのです。私たちは出生した瞬間から、弾丸のように死に向かって進んでいます。この現実に目を覚まし、勇気をもって自然の法則である死に向き合うべきです。人生で自由を重んじるなら、死に対する恐怖からも自由になるべきでしょう。恐怖は、自然の法則を知らない人だけに起こります。仏陀はこのように説かれました。「恐怖は愚者に起こり、賢者には起こらない」と。(Axguttara Nikqya)。恐怖とは、頭のなかの妄想なのです。科学では「死とは生理的に体が腐敗することである」と説明しています。私たちはまだ死を経験したことがないにもかかわらず、死は恐いものだと妄想して、不必要に脅えているのです。有名なウィリアム・オスラー医師(Sir William Osler)はこう述べました。「私の長年の臨床経験のなかで、激しい苦痛や恐怖に襲われて死んでいった人はほとんどいません」と。 また、あるベテランの看護婦はこう言いました。「大勢の人は死を恐れながら生きていますが、これはあまりにも悲しいことだと私は思います。なぜなら死が来たとき、死は生と同様に自然の現象だということが分かるのですから。臨終のときに死を恐れる人はほとんどいません。これまでの私の経験のなかで、恐怖を抱いて死んでいったのはたった一人だけです。その女性は、妹に取り返しのつかない残酷なことをしたと嘆いていました。しかし『死は真理である』ということを理解している人が死を迎えるとき、美しいことが起こります。恐れも脅えもすっかり消え去るのです。彼らの眼には驚くほどの安らぎがあるのを私はよく見ました。これこそが真理を知ることの徳ではないでしょうか」 生に執着すれば、死ぬのが恐くなります。また、生きることが不安になり、たとえ善いことであっても思いきって行動しようとしなくなるのです。大事な自分の命が病気や不慮の事故に遭って消えてしまうのではないかと心配し、脅えながら日々を過ごしているのです。また、死は避けられないということが分かったとしても、生に対して強い愛着をもっている人は、死んだあと、魂が天国に行きますようにと熱心に祈るのです。このように心が恐怖や期待で混乱していては、幸福になれるはずがありません。にもかかわらず、私たちは自己を防衛しようとする、これらの本能を無視することができないでいるのです。 死の恐怖を乗り越える方法があります。それは「私」にこだわる思いを捨てることです。つまり内側に向いている愛情を、外側へ向けること、すなわち他の生命の幸福に役立つことを行ない、慈しみを注ぐことです。「自分はいつか必ず死ぬ、死を避けることはできない」という事実を常に念頭に置いておく人は、死ぬ前に、人類に対する自分の責任を果たそうと精一杯努力します。今生でも来世でも放逸になることはありません。人の役立つことに専心すれば、利己的な執着や期待、虚栄心、傲慢、独善という重荷からすぐに解放されるでしょう。 病気と死 生きている限り、病気と死は必ず訪れるものです。このことをよく理解して、ありのままに受け入れなければなりません。現代心理学によると、過度の精神的なストレスは、生の現実から逃避したり拒否することから生じるのであり、ストレスを緩和するか、あるいは克服するかしなければ、体に重大な病気を引き起こすと言っています。過度に悩んだり落ちこんだ状態が続くと、病気は確実に悪化するのです。 心を清らかにして正しい行動をとる人は、死を恐れません。「私」というものは、心と物体が結合して成り立っているものにすぎず、「死ぬ人」という固定的な実体は存在しないのです。業の結果、つまり過去でやった諸々の行為が次の生をつくりだし、その生でまた業の苦しみを負うのです。 輪廻の苦しみを終わらせることもできます。それには、いつでもどこでも道徳を守り、善行為をして、徳を積むように精一杯努力しなければなりません。そうすることによって、恐れずに現実的に、死に向き合うことができるのです。仏教では、自分の代わりに業の重荷を引き受けてくれる「救済者」という存在はいないと説いています。自分がやった悪い行為の結果は、自分が受けるしかないのです。仏陀は説かれました。「自分を拠り所にしなさい、島にしなさい、励みなさい」と。この教えを常に心に留めておいてください。親戚や友人が死んでも嘆き悲しむべきではありません。いくら嘆き悲しんでも輪廻転生を止めることはできないのです。人は死ぬと、自分の業にしたがって新しい生に転生します。親類や友人は、死体が墓に入るまでそばに付き添うことができますが、それ以上は不可能です。次の生にいっしょに行くのは、自分が行なった善悪の行為だけなのです。ですから残された者たちは、愛する人の死を落ちついて受けとめ、別れに耐えるべきです。死を避けることは誰にもできません。死だけが唯一、この宇宙で確実なものなのです。森は都市に、都市は砂漠に変わるかもしれません。山があるところには湖ができるかもしれません。変わらない確実なものなどどこにもないのです。しかし死だけは確実です。それ以外のものはすべて一時的です。私たちにはたくさんの先祖たちがいました。でも彼らは今どこにいるのでしょうか。みんな死んでしまったのです。 ここまでの話しを聞いて、仏教は生を悲観的に見ている、と思わないでください。死こそが、あらゆる現実のなかで最高の現実的な見方なのです。なのになぜ私たちは現実を見ようとせず、非現実的なままでいるのでしょうか。死はすべてのことを終わりにするのではありませんか? そう、死はすべてを終わりにするのです。このことを決して忘れないでください。死は、私たちの運命に目覚めさせてくれます。どんなに地位が高くても、どんなに高度な技術や医療科学を有していても、すべての人は皆、平等に死ぬのです。棺に入るか、ほんの一握りの灰になって。そしてこの生と死の連鎖は、私たちが完全なる悟りを開くまで、ずっと続いてゆくのです。 影響力は続く 仏陀はおっしゃいました。「肉体は灰になるが、名前や与えた影響力は残る」と。影響力というものは、人が肉体をもって生存しているときより死んだあとのほうが、より強く広範囲に及ぶことがあります。私たちは、過去の人格者の思想に強く影響されて善い行為をすることもあるでしょう。人格を完成させるためには、過去の偉人の考え方も重要なのです。それから今、生きている人は、死んだ先祖たちの合成だとみなすこともできます。そう考えると、過去の偉大なる哲学者・賢者・英雄・詩人・音楽家は人種に関係なく、今でも私たちの内にいると考えることもできるでしょう。過去の偉大な人物と自分自身とを関連づけるとき、彼らが説いた賢い思想や優れた考え、世代を超えた不朽の音楽などを共有することができるのです。彼らの肉体は滅びましたが、与えた影響は生き続けています。肉体は、常に変化し続ける化学要素の組み合わせにすぎません。人生とは、絶えず流れている大きな河の一滴であり、私たちはこの巨大な流れの一部に貢献できるように幸福にならなければならないのです。 生の本質を知らなければ、無明という泥沼に沈んで嘆き悲しみます。しかし生の本質に気づくことができたなら、無常なるものをすべて捨て去り、涅槃を求めるのです。涅槃に達する前には、何度も何度も死に直面しなければなりません。でも、死ぬこと自体には何の意味もないのですから、死ぬことに抗うべきではありません。 仏教は「今生は最初で最後の生ではない」と教えています。もし今生で確信をもって善行為を続けるなら、未来の生はより幸福になります。また、何度も何度も繰り返し生まれ変わるのが嫌だと思うなら、心を育て、渇愛と煩悩をすべて取り除くよう、解脱に向かって懸命に努力すべきでしょう。 仏教哲学 悟りの最高の位に達した聖者は、煩悩を完全に取り除いていますから、親類縁者が死んでも嘆き悲しむことがありません。仏陀が入滅されたとき、阿羅漢に達していたアヌルッダ尊者は嘆き悲しみませんでした。しかし当時、預流果(悟りの最初の位)までしか達していなかったアーナンダ尊者は涙を流して深く悲しみました。アヌルッダ尊者はこのように言われました。「アーナンダよ、仏陀はかつてこう説かれたのではなかったか。生まれたもの、組み立てられたもの、作られたものは、必ず壊れる。生じては消える。これが諸々の条件によって形成されたものの本質である。生まれたものは必ず死ぬ。この構造が完全に止むとき、究極の平安が訪れる」と。この言葉は、仏教哲学が築かれた基盤となる教えです。 悲しみの原因 悲しみの原因は、あらゆる形の執着です。悲しみを乗り越えたければ、人や財産に対する執着を捨てなければなりません。これが究極の真理であり、死が示す教訓なのです。執着は、私たちの感情を喜ばせ、世俗の生活を続けさせるためにさまざまなものを与えます。しかし結局それは、あらゆる悲しみを引き起こすのです。もしこの教訓を学ばなければ、私たちは死に打ちのめされ、恐怖に押しつぶされるでしょう。このことを仏陀は見事に説かれました。 子供や財産に執着しても、死は人を連れ去ってゆく ちょうど大洪水が、眠っている村を押し流すように この教えは、村人たちが眠り込まずによく目覚めていたなら、村が大洪水で台無しになることはなかったということを意味しています。 死はすべての人にやってくる 愛する人が死んだために深い悲嘆に陥っていた二人の女性がいました。仏陀はいかにして彼女たちの問題を解決されたのでしょうか。一人はキサーゴータミー(Kisqgotam])です。彼女のたった一人の子供がヘビに噛まれて死にました。その死んだ子を抱えて仏陀のもとへ行き「この子を助けてください」とお願いしました。仏陀は「からしの粒を数個もらってきなさい。ただし今までに一度も死者を出したことのない家からですよ」と言いました。しかしキサーゴータミーは、死者を出したことのない家を見つけることができませんでした。彼女が訪れたどの家も喪中か、あるいは一度以上死者を出していました。ついにキサーゴータミーは、死はすべての人に起こるものだという苦い現実に目覚めたのです。死は、すべての生命に襲いかかるものであり、誰もそれを免れることはできないのです。 もう一人はパターチャーラー(Pawqcqrq)です。彼女のケースは、キサーゴータミーよりもさらに悲惨でした。短い期間に二人の子供と夫、兄弟、両親、そして財産をすべて失くしてしまったのです。正気を失い狂乱して裸のまま街を走り回っているとき、仏陀に出会いました。仏陀はパターチャーラーを正気に戻し、こう説かれました。死はすべての生命に起こる当たり前の現象であると。 さらに続けて「パターチャーラーよ、あなたがこのような苦しみを味わったのは今回がはじめてではありません。無数の生涯のあいだで父や母、子供、親戚たちが死ぬたびに苦しんできました。輪廻のなかであなたが流した涙の量は、海の水の量よりも多いのです」 仏陀の話が終わったあと、パターチャーラーは生の不確実性に目覚めました。パターチャーラーもキサーゴータミーも、自分の悲惨な経験から「苦」という現実を理解したのです。四聖諦の第一の真理である苦の真理を深く理解することによって、残りの三つの真理も理解しました。仏陀は説かれました。「比丘たちよ、苦を理解しなさい。そして苦の原因と苦を滅する道を理解しなさい」と。 五蘊 死とは、五蘊が分解することです。五蘊とは、感受作用(受)、知覚作用(想)、形成作用(行)、認識作用(識)、物体(色)の五つの集まりのことです。はじめの受想行識の四つは心の集まり(nqma)であり、意識を構成する要素です。最後の色は物体、言い換えれば、体の集まり(r[pa)です。そしてこの心と物体が合成されたものを、私たちは便宜上、個とか、人とか、我と名づけているのです。したがって存在とは実体ではなく、心と物体の二つの基本要素から構成されているものであって、単なる現象にすぎないのです。しかし私たちは妄想で心を覆われているため、五蘊が現象だとわからず、実体として見ています。また、生まれながらにして備わっている欲望のせいで、自分はかわいいと思っているために、五蘊を固定的な「私」とみなしているのです。 ものごとの真のあり方を知ることができるのは、心が平静で、ありのまま見ようとする意志が働いているときだけです。仏陀は大念住経(Mahqsatipawwhqna Sutta)でこう説かれています。自分の内面の深いところに意識を向け、忍耐強く、注意深く、五蘊を観察しなさい。我を入れずに、客観的に五蘊の流れを確認するのです。そしてこの実践を十分な期間続けるなら、五蘊は実体ではなく、連続する心と体の流れであることが理解できるでしょう。そうすればもう現象を実体だと誤解することはありません。それから、五蘊が急速に連続して生滅していることが見えてきます。そして一度生じた現象と同じ現象は二度と生まれない、ということもわかります。また五蘊は、一瞬も止まることなく常に流れ続けているものであって、実体として「存在する being」のではなく、絶えず「成りつづけている becoming」ということがわかるでしょう。 輪廻転生 人が死ぬとき、心を形成する四つの集まり、すなわち識と受想行は、死ぬ前と同様に、途切れることなく生滅を続けます。しかし四つの集まりは、前の物体の中で機能することができません。物体が壊れてしまったからです。そこで四つの要素がうまく機能するために適した新しい物体をすぐに見つけなければなりません。このとき業(kamma)が法則にしたがって働き、五蘊が組み換えられるのです。これが輪廻転生です。 エネルギーのかたまり 簡潔に言いますと、五蘊が結合することを「誕生」、五蘊が一つのまとまりとして組み立てられている状態を「生」、五蘊が分解することを「死」、そして五蘊が再び結合することを「転生」と言います。しかし私たち凡人にとっては、どのようにして五蘊が再び結合するのか(転生するのか)を理解するのは容易いことではありません。それには五蘊の各要素の性質、心のエネルギー、業の法則、宇宙エネルギーの作用を正しく理解しなければならないのです。死について、いくつかの考え方があります。ある人は、死とは単に自然の出来事の一つであって、五つの構成要素が分離したあとには何も残らない、つまり死をもって一切は終わると考えています。またある人は、魂が一つの体から別の体へ移動することだと考え、また他の人は、魂が定まっていない状態、言い換えれば、最後の審判の日が来るのを待っている状態だと考えています。仏教徒は、死は一時的な現象世界における一時的な終わりにすぎず、存在が完全に滅することではないとみなしています。 死の原因 仏教では、死は次の四種のうちいずれか一つが原因になって起こると考えています。 一、 個々の種の生命に割り与えられた寿命が尽きる(Ayukkhaya) 二、 誕生をもたらした業のエネルギーが尽きる(Kamma-kkhaya) 三、 寿命と業の両方が同時に尽きる(Ubhayakkaya) 四、 外部の影響、すなわち事故や予期せぬ出来事(自然の作用、二に当てはまらない過去世の業)によって起こる(Upaccedake) 死の原因についての良い喩えがあります。ろうそくの喩えです。ろうそくの炎は、次の四種のうちいずれか一つが原因になって消えます。 一、 ろうそくの芯が燃え尽きる。これは寿命が尽きて死ぬようなものです。 二、 ろうそくの蝋がなくなる。これは業が尽きて死ぬようなものです。 三、 芯と蝋が同時になくなる。これは寿命と業の両方が尽きて死ぬようなものです。 四、 風が吹くなど、外部の要因によって火が消える。これは外の影響が原因で死ぬようなものです。 事実に向き合う 死に向き合うための最良の方法はなんでしょうか? それは、前もって注意して備えておくことです。すなわち「私は死ぬ、遅かれ早かれ必ず死ぬ」と念じることです。死を念じるといっても、人生を悲観的に見ているわけではありません。死は現実に起こり、必ず直面しなければならないものなのです。仏教は智慧の教えですから、人が好むと好まざるとにかかわらず、事実に向き合うことを教えています。 また、シーク教の創始者、グル・ナーナック(Guru Nanak)はこのように言われました。「世の中の人は死を恐れている。だが私にとって死は至福をもたらす」と。この言葉から、偉大で智慧のある人は死を恐れるのではなく、死を受け入れる準備ができているということがわかるでしょう。これまで大勢の人たちが、自らの死を自覚して他者の幸福のために力を尽くしてきました。彼らの名前は、後世の人のために世界の歴史に記録されています。 死は避けられない 私たちは日頃ニュースなどで他の生命の死をよく見ているにもかかわらず、どういうわけか自分も同じように遅かれ早かれ必ず死ぬ、と考えることは滅多にやりません。これは矛盾しています。死は確実にやってくるのです。でも私たちは生にべったりと執着しているため、死について考えることを嫌がり、できるだけそれを遠ざけています。死はどこか遠いところの出来事であって思い悩むべきものではない、と自分を欺いているのです。死に向き合う勇気をもつべきです。そして厳然たる死が訪れたとき、それに直面できるように備えておかなければなりません。自分は必ず死ぬ、という事実を認識して心の準備を整えておくなら、しかも、死を恐ろしい出来事としてではなく、当然の出来事として受け入れることができるなら、 死が訪れたとき、落ちつきと勇気と自信をもって直面することができるでしょう。 義務と責任 死はいつ訪れるかわかりません。ですから家族に対する義務や責任を、ふだんと変わらぬ落ちつきで、前向きに、自信をもって果たすべきです。ぐずぐず先に延ばしてはいけません。今日できることは明日に延ばさず、時間を上手に利用して、人生を有意義に過ごさなければなりません。生きているうちに、妻や夫、子供に対する義務を果たしておくことが大切です。遺言状は忘れずに書いておくべきでしょう。そうすれば遺された家族が争ったり、悩んだり、諸々の問題を引き起こさないですむからです。死はすべての人に平等にやってきます。地位や貧富、老若によって人を差別待遇することはありません。死に対する準備ができているなら、今生最期の日を迎えるときには、希望と自信をもって恐れずに死に直面できるでしょう。 渇愛と無明 死を乗り越えることはできるのでしょうか? 答えは、できます! 私たちが死ぬのは、生まれたからなのです。生まれては死に、また生まれては死ぬ、この限りない繰り返しを輪廻転生(sa/sqra)と言います。輪廻転生に終止符を打つためには、無明(avijjq)と渇愛(tazhq)を断たなければなりません。無明と渇愛が輪廻転生の根源であり、滅尽すべきものなのです。したがって無明と渇愛を滅尽すれば、生を乗り越え、死に打ち克ち、輪廻転生を超越し、涅槃(nibbqna)に到達するということです。 「この世の一切のものは無常である」という真理を理解できるように努力してください。存在は単なる幻影にすぎません。科学的あるいは哲学的な方法で、あらゆることを分析して調べてみれば、最終的に「実体はない」ということが発見できるでしょう。 死を恐れることは、 擦り切れた古着を捨て去るのを恐れているようなものである (ガンジー Gandhi) 愛する人を失うことは耐えがたく苦しいものです。その原因は執着にあります。仏陀の在世当時、ヴィサーカー(Visqkhq)という有名な女性在家信者がいました。愛する孫娘が死んでしまい、その悲しみを仏陀に聞いていただこうと僧院を訪れました。仏陀はヴィサーカーにこう尋ねました。 「ヴィサーカーよ、あなたはこのサーヴァッティの町にいる子供の数と同じだけ、自分の子供や孫がほしいですか?」 「はい、ほしいです。それほど大勢の子供がいれば、どんなに楽しいことでしょう」 「では、その子供たちが死ぬたびに、あなたは泣き悲しむのですか? ヴィサーカーよ、愛する人が百人いる者には、百の悲しみがあります。そして愛する人が一人もいない者には、悲しみがなく、悲しみから解放されているのです」 人に愛着すれば、離別という悲しみの代償を払わなければならないのです。 命に対する愛着が、死の恐怖を生みだしています。私たちは、たとえ善いことだと知っていても思いきって行動しようとしません。事故に遭ったり病気になって自分の尊い命が失われるのではないかと恐れながら日々を過ごしているのです。それから、自分は必ず死ぬということを理解した人でも、自衛本能が働いて、魂が天国で生き続けますようにと祈るのです。これは来世に対する強烈な渇愛から生じています。 死という自分の運命に気づくべきです。王であろうと庶民であろうと、金持ちであろうと貧乏であろうと、健康であろうと病弱であろうと、この肉体の最後の場所は棺に入って地下に葬られるか、焼かれて骨壷に入るか、海に流されるかのいずれかなのです。 すべての人は皆、死に直面して同じ結末を迎えます。私たちは生の本質を知らないために、死が訪れたとき嘆き悲しみます。しかしいったん生の本質に目覚めることができれば、組み立てられて成り立っているすべての現象の無常性を見ることができ、解脱を求めるようになるのです。諸々の世俗的な束縛から解放されるまでには、何度も何度も死に直面しなければならないでしょう。しかしここで死は非常に重要な役割を果たすのです。死が耐えがたく嫌なものだと気づくことによって、生と死の循環、つまり輪廻転生を乗り越えようと懸命に努力するようになるのです。 死の観察 なぜ死を念じなければならないのでしょうか? 何のために観察するのでしょうか? 仏陀は人々に、常に死を念じて観察しなさいと勧められました。理由は、生まれたものは必ず死ぬからです。受精したときに現れた心と体は、それから発育し、成長し、成熟します。これは言い換えれば、徐々に老化しているということです。私たちは子供のときは「成長する」と言いますが、その後は「老ける」と言います。しかし結局は、避けることのできない死に向かって進行している一本のプロセスにすぎないのです。 ある調査によると、今日では毎日平均して二十万もの人が死亡していると言われています。ということは、毎年およそ七千万もの人が死んでいるということになります。 これだけ大勢の人が死んでいるにもかかわらず、私たちは死を認めることや観察することにまったく慣れていません。私たちが普段やっていることは、死を避けて、自分は決して死なないかのように生きることです。しかし死を恐れている限り、有益で充実した人生を送ることはできません。したがって死を観察する一番目の理由は、恐怖を乗り越えることです。決して気を滅入らせたり絶望させるためではありません。観察することによって、恐怖から解放されるのです。 二番目の理由は、人生に対する見方や態度が変わるということです。私は絶対に死なないという思い込みをやめれば、人生に対する価値観は根本から転換し、今までとはまったく異なる人生を生き始めるのです。 三番目の理由は、正しく、穏やかな方法で死にアプローチし、それに向き合う能力を育てることです。 死の観察には三つの利点があります。 ・恐怖が取り除かれる。 ・人生に新しい価値観をもたらし、正しい価値観をもって生きることができる。 ・尊厳をもって死ぬことができる。 つまり死を観察することによって、有意義な人生を送り、安らかな死を迎えることができるのです。これ以上ほかに必要なことがあるでしょうか。 仏教では次のような観察を勧めています。 ・私は老いるものである。老いを避けることはできない。 ・私は病むものである。病を避けることはできない。 ・私は死ぬものである。死を避けることはできない。 ・私のもの、愛するもの、好むものの一切は、変化し、別れ、離れてゆく。 ・私は業の支配下にある。業の果を避けることはできない。 以上の真実を、落ち着いた心で観察して意識するなら、老病死、離別に対する恐怖を乗り越えることができるでしょう。観察の目的は、私たちを憂鬱にさせるためでも、死にたいという虚無的な気持ちにさせるためでもありません。恐れることなく人生を生き、恐れることなく死を迎えるためなのです。 死は生の一部 死は存在の一部であり、すべての生命に訪れるものです。若いときに死ぬ人もいれば、年老いてから死ぬ人もいます。いつ来るかはわかりませんが、すべての人はまちがいなく死ぬのです。招かれていないのにこの世に生まれ来て、命じられてないのにこの世を去って逝きます。自分も、他人も、動物も、植物も、すべての形成されたもの、すべての生命は確実に死ぬのです。冬が近づくと、葉は枯れて木から散り落ちます。しかしそれを見て嘆き悲しむ人はいないでしょう。なぜなら、これは自然の成りゆきだと知っているからです。私たちの命も、この散りゆく葉のようなものなのです。 宗教的な人は、物質主義的な人よりも、たいがい死に対する恐怖が少ないものです。というのも、物質主義者は今生において五感を楽しませることにしか関心がないからです。 仏教の観点から見ますと、死は「今生の終わり」というだけではありません。「次生の始まり」でもあるのです。一方、再生は「次生の始まり」であり、また「今生の終わり」でもあるのです。ですから今生の死というのは、生・死・再生・死・再生・死……と繰り返される全体のプロセスの中のほんの一部にすぎないのです。この絶えまないプロセスを理解することができれば、死に対する恐怖は減ってゆくでしょう。死は存在の終わりではなく、一つのサイクルの終わりにすぎないのです。そして一つのサイクルが終わった瞬間に、次のサイクルが新たに回転し始めるのです。葉は木から落ちますが、それで終わりではありません。葉は土になり、木の根の栄養になり、翌年には木から新しい葉が出てきます。人生も同じです。死の瞬間が再生なのです。この基本的な原理を理解することができれば、死の恐怖から解放されるでしょう。 今に目覚めて生きる 私たちは、時間をどれだけ浪費にしているかということを何も考えずに、多くのつまらぬことに心を奪われて日々を過ごしています。今この瞬間でさえ、はっきり目覚めて生きていないのに、来年のことや二十年先のこと、未来のことを思い煩って、今日という一日をどれほど無駄に過ごしたのでしょうか。 人生に対する価値観は変わるものです。人生で大切なものは何でしょうか? 何のために生きているのでしょうか? 何が人生を形づくっているのでしょうか? 真剣に死を観察すれば、人生に対する価値観を見直すことができるでしょう。いくらお金を蓄えても意味がありません。死ぬときにはすべて置いて逝かなければならないからです。かわいがってきた我が身でさえ置いて逝かなければなりません。遺体はただのゴミとなり、遺族が何らかの方法でそれを処分するのです。 ですから大切なことは、どう生きるかという生き方であって、多くの財産を獲得することではないのです。生き方が善いものになるか悪いものになるかは、心の質次第です。今日一日をより善く生きることが、ほかの何よりも大切なのです。生命は皆、死と心の質を条件として、次の生に転生します。心の質だけが、この世に残さず次の生に相続する唯一のものなのです。 生命は業を所有し、 業を相続し、業から生まれ、 業を親族とし、業に従い、 善悪の業を作りて、それを相続する。 次の生に転生するのは、業、言い換えれば、内面の性質、心の質、精神の質、善悪の質だけです。相続するものはこれだけです。業が次の生の行き先を決定し、未来を形づくり、次々に起こる生に新しい価値をもたらすのです。私たちは稼いだお金でさまざまなことを楽しめるかもしれません。しかしそれよりも大事なことは、穏やかに生き、道徳性を育てることです。これは、自分の人生や価値観に大変良い結果をもたらします。ただ生きることではなく、どのように生きるかが重要なのです。 安らかな死を迎える これまで話してきたことを熟考して、死を恐れるのではなく、現実に起こる出来事として納得することができれば、自信をもって死を迎えられるでしょう。それだけでなく、安らかな死を迎えるために備えておくこともできるのです。正しく生きてきた人は、安らかな死を迎えられます。しかし正しく生きてこなかったという人でも、今から精一杯努力すればいいのです。つまり死を観察して、「恐れない」という善い性質を心に育てるのです。 死が近づいてくると、多くの人は肉体の苦痛や愛する人との別れに恐怖を覚えます。このようなとき、周りの人は死にゆく人の恐怖を和らげて、安心させてあげなければなりません。それにはまず、付き添っているあなた自身が落ちついている必要があります。肉体の痛みは激しく、耐えがたいものです。しかし幸運にも現代医学の進歩によって、肉体の苦痛を鎮めることが可能になりました。今では、痛みは圧倒的な恐怖の対象ではなくなったのです。 私は通常、死に瀕している人、たとえば癌などの末期の病状にある人に対しては、まず安心感を与えるようにしています。そうすれば患者は肉体以外の精神的な苦痛を味わわずにすみますし、また、適切な治療を受けて肉体の苦痛を和らげることもできます。安心感を与えることは、患者がリックスして穏やかな死を迎えるために重要なことなのです。 それから、愛する人との別れという恐怖もあります。元気なときに「会うことは別れること」という観察をしていれば、それほど恐怖を感じることもないでしょう。しかし観察をしていない人に対しては、周りの人の手助けが必要です。子供や家族のことは心配しなくても大丈夫、親類や友人がちゃんと面倒みてくれるから、と死にゆく人を安心させ、穏やかな気持ちにさせることが必要です。 重要なことは、死にゆく人が、より穏やかになるように励ましてあげることです。どうすればよいのでしょうか? 仏教では、死にゆく人の部屋を穏やかな雰囲気に保つことを勧めています。枕元で叫んだり、泣き喚いたり、嘆き悲しんでもまったく意味がありません。このようなことをする人たちは、死という重大事を迎えようとしている人に対して何をしているのでしょうか。穏やかに死ぬのを困難しているだけです。寿命が尽きようとしているこの大事な時期には、親類や友人たちがそばに集まり、思いやりと慈しみをもって、快く何か役立つことをしてあげることが大切なのです。 「死に瀕しているとき、宗教的な象徴はとても役に立ちます。死にゆく人が仏教徒なら小さな仏像を見せてあげたり、できれば僧侶を家に招いて心の動揺をなだめるお経を唱えてもらうのが大変有効です。そうすれば大きな安らぎと尊厳をもって死ぬことができるでしょう。このように可能な限りの最善な状況のなかで、新しい生に転生できることは素晴らしいことです」(アジャン・ジャガロ Ajahn Jagaro) 生を無駄にしない 誰もが皆、自分の人生の義務と責任をまっとうしたあとに、穏やかな死を迎えることを望んでいます。しかし、どれだけの人が死に備えているでしょうか。どれだけの人が家族や友人、国、宗教、自分の人生に対する責任を果たしているでしょうか。責任を果たさなければ、穏やかに死を迎えることは難しいのです。 私たちはまず何よりも、死の恐怖を乗り越えることを学ばなければなりません。神々も死に支配されていますから、頼りにすることはできないのです。つまらぬことに心を奪われて時間を無駄に過ごしていると、死期が近づいたとき、後悔の念に襲われるでしょう。 人生とは、絶えまなく流れ続けている河の水の一滴にすぎません。このことを理解する人は、輪廻という大きな河の、ほんの一部分にでも貢献しようと心を動かされるものです。賢者は知っています。生きるということは悪を避け、善を行い、心を清らかにして、解脱するために努力しなければならないということを。仏陀の教えに基づいて、生きるということを理解した人は、死について悩むことがありません。死が苦しみをもたらすのではありません。生きているあいだに自分のためや世界のために何も為さないことが苦しみをもたらすのです。 今日、私は死ぬ 有名な西洋仏教学者、デイビッド・モリス氏(David Morris)は八十五歳で亡くなりました。彼が死んだ直後に、筆者は一通の手紙を受け取りました。それは明らかにモリス氏が亡くなる前に書いた手紙であり、ポストに投函されたものです。その手紙にはこう書かれていました。「今日、私が死んだということを知って、あなたは安心されるでしょう。これには二つの理由があります。一つは、私がようやく病気の苦しみから解放されるということ。もう一つは、私は仏教徒となり五つの戒律を堅く守ってきたので、来世は苦しみの次元に落ちることがないからです」と。生は夢のように儚く、死は現実に訪れ、転生は必然的に起こります。死に備えておけば、輪廻転生を乗り越えられるか、あるいはもう少し生が続くかのいずれかが起こるでしょう。人間の智慧は、苦しみを取り除くためにあるのです。 生きとし生けるものが幸せでありますように ****************************** 生は不確実・死は確実 Life is uncertain, Death is certain K.スリダンマナンダ大僧正著 Ven. Dr. K. Sri Dhammananda Nayaka Maha Thero Published by the Buddhist Missionary Society Malaysia, Buddhist Maha Vihara 123 Jalan Berhala, Brickfields 50470 Kuala Lumpur, Malaysia Copyright 1995 K. Sri Dhammananda. All rights are reserved. Published for free distribution Translated by Yoshiko Demura 出村佳子訳 http://homepage3.nifty.com/sukha/ ****************************** |
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